【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】

前回:賀曽利隆の「世界一周」(1971年~1972年)ヨーロッパ編

1972年6月21日、イギリスのティルベリー港を出港したロシア船の「アレクサンドル・プシュキン号」は、フランスのルアーブル港に寄ったあと、大西洋を西へ、西へと進んだ。

▲大西洋を西へ、西へと進む「アレクサンドル・プシュキン号」

船の料金は10段階に分かれていたが、ぼくはもちろん、一番安いクラス。どんなにひどいところに連れていかれるのだろうかと覚悟していたが、船室に案内されて驚いた。冷暖房完備の4人用の部屋。応接セットがある。ベッドのシーツと枕カバーの白さが目にしみた。

備付けのラジオからはロシア音楽が流れてくる。ドアの前には1日の船内の行事が書かれたきれいな表紙のプログラム。ほかに乗客はいないので、ぼくが1人でこの部屋を使えるのだ。

船内のあらゆる施設に差別はなかった。どのクラスの乗客でも自由に使えた。船内ではロシア語口座が開かれていたので、ぼくも受講した。アルファベットに始まり、あいさつ、簡単な日常会話、名詞と、毎日1時間の授業だ。

楽しいのは食事。大食堂に乗客、全員が集まる。東洋人の乗客はぼく1人なので、もの珍しさも手伝って、いろいろな人たちに話しかけられた。単調な船内の毎日、ほかにすることもないので、誰もが時間をかけてゆっくりと食べる。食事は食べ放題。入口のテーブルに並べられたものの中から好きなものを取って食べ、そのあとメニューを見ながらメインディッシュの料理を選ぶのだ。

ルアーブル港を出た翌日、甲板で海を眺めていると、
「すこし、お話ししてもいいかしら…」
と、若い女性に声をかけられた。
何ともラッキーなことだったが、それがベチャ(エリザベス)との出会いであった。

ベチャは23歳。イギリス生まれのポーランド人で、国籍はカナダ。髪の長い、スラッとした美人。彼女はロンドンのアメリカンスクールで子供たちに英語を教えているとのことで、3年ぶりに母親のいるモントリオールに帰るところだった。

▲「アレクサンドル・プシュキン号」で出会ったベチャ(エリザベス)

ベチャと出会ってからというもの、船旅はこの上もなく楽しいものになった。朝早く起きると、ベチャと一緒に裸足になって甲板を走る。水平線に昇る朝日を眺め、胸いっぱいに朝のすがすがしい空気を吸う。ベチャの髪は汗でキラキラ光っている。甲板を走り終わるとジムで自転車をこぐ。それにはスピード・メーターがついていて、「ほら、タカシ見て、30キロよ!」と、ベチャは時速30キロになったといって喜んだ。
日中は甲板にバスタオルを敷いての日光浴。日光浴しながら、とりとめもない話しをしたり、トランプをしたり、図書館で借りた本を読んだ。

ティルベリ港を出てから7日目、「アレクサンドル・プシュキン号」は、大西洋からセントローレンス川に入っていく。川の両側には、緑豊かなカナダの自然が広がっている。ところどころにポツン、ポツンとカラフルな家が見える。ベチャと甲板の一番後ろに座り、流れていくカナダの風景に目をやった。北国の夏の夕日はなかなか沈まない。西の空はいつまでも赤く染まっていた。

▲セントローレンス川に入っていく「アレクサンドル・プシュキン号」

6月30日、「アレクサンドル・プシュキン号」は、モントリオール港に到着。船内での入国手続きが済むと下船。港にはベチャのお母さんと妹が迎えにきていた。妹はベチャに負けず劣らずの美人。
「ジンドーブレ(こんにちは)、ヤクシェマシェ(ごきげんいかかがですか)」
ベチャに教えてもらったポーランド語であいさつすると、ふたりともびっくりしたような顔をする。それを見て、ベチャはおかしそうに笑った。

モントリオール郊外の住宅街にあるベチャの家に招かれ、冷たい飲み物と昼食をご馳走になった。
「ねー、タカシ、空いてる部屋があるの。2、3日は泊まっていってくれるでしょ」
といわれたが、「ごめん、ベチャ、行かなくては…」と、お母さんと妹にお礼をいってベチャと一緒に外に出た。ベチャは目に涙を浮かべていた。

ぼくには急ぐ理由はなかった。しかし、もしベチャのいうように2日も3日も一緒にいたら、このままモントリオールから離れられなくなってしまう予感がした。行かなくてはならない。まだ旅は終わっていない。これからアメリカ大陸を横断するのだ。

ハスラー250のエンジンをかける。「自分は旅人だ!」といいきかせて、ちぎれんばかりに手を振るベチャの見送りを受けて走り出した。

モントリオールからはカナダを横断するトランス・カナダ・ハイウェイを西へ、西へと走る。ロッキー山脈を越えてカナダ西海岸のバンクーバーに到着。バンクーバーからアメリカに入った。シアトルからロサンゼルスを目指し、高速道路のI5(インターステーツ5号)を南下。オレゴン州を通り、カリフォルニア州に入った。

▲トランス・カナダ・ハイウェイ沿いのガソリンスタンド

▲サスカチュワン州のレジナまで153キロ

▲カナディアンロッキーのバンフ・ナショナルパークを行く

▲アメリカ西海岸のシアトルから南下する

レッドブルフという町のガソリンスタンドに着いたところで、この日、3度目のパンク。ガソリンスタンドの経営者、ジュエリーにはすっかりお世話になった。

その夜は彼の家に泊めてもらった。奥さんのジュディーは、「日本からのお客さんだから」といってご馳走してくれた。その夜は遅くまで、2人と日本のこと、アメリカのこと、世界のことを話した。

翌朝、2人は「タカシのお父さんとお母さんを喜ばせてあげよう!」といって国際電話をしてくれた。ぼくは久しぶりに聞く両親と妹の声にあわてふためき、うまく話せなかった。

朝食をご馳走になったあと、2人にお礼をいったが、ジュディーは「とっても楽しかったわ。タカシの話はgood educationよ!」といって喜んでくれた。ジュエリーは町のバイクショップに連れていってくれた。そこで新しいチューブを買い、チューブを交換すると、ジュエリーに別れを告げてサンフランシスコに向かった。

▲カリフォルニア州レッドブルフのGSオーナー、ジュエリー(写真)にはお世話になった。奥さんのジュディーにはたいそうなご馳走になった。忘れられない夫妻!

サンフランシスコからロサンゼルスへ。
ロサンゼルスに到着したのは、日本を出てから1年後の7月18日のことだった。

▲ロサンゼルスに到着。日本を出発してから1年後のことだ

ロサンゼル郊外のUSスズキに行く。するとみなさんには大歓迎された。
その日のうちにタイヤやチェーン、スプロケットなどの部品交換をしてくれた。ハスラー250が蘇ったのだ。

夕食はUSスズキのみなさんに、日本料理店でご馳走になった。久しぶりに食べる刺身に思わず、「うま~い!」の声が出る。醤油とワサビの味がたまらない。ありがたいことに、その夜はホテルに部屋をとってくれた。ところが泥や石ころ、草の上などで寝る野宿の毎日なので、フワフワのベッドでは寝つけない。そこで仕方なく床の上にシュラフを敷いた。いつもの泥と汗にまみれたシュラフにもぐり込むと、いつものようにすぐに深い眠りに落ちていった。

ロサンゼルスから内陸ルート(ネバダ州→ユタ州→アイダホ州→モンタナ州)経由でワシントン州に入り、シアトルからバンクーバーへ。今度はアラスカを目指すのだ。

▲ロサンゼルスを出発。ユタ州の広野を行く。目指すはアラスカ!

▲アイダホ州からモニダ峠を越えてモンタナ州に入る

▲ワシントン州の大平原を行く

▲カナダに入った。バンクーバーへ、夕日に向かって突っ走る

バンクーバーから1,200キロ北のドーソンクリークからアラスカ・ハイウェーに入っていく。舗装路はすぐに途切れダートになる。この年、カナダ北部は異常な夏で、冷たい雨が降りつづいた。

▲ドーソンクリークからアラスカ・ハイウェーに入る

▲カナディアンロッキーの氷河地帯を行く

80キロから90キロぐらいの速度で走ったが、飛び散る泥には泣かされた。ゴーグルをしているのだが、泥がこびりつき、前方がほとんど見えなくなってしまう。仕方なく裸眼で走ると、今度はいやになるほど目の中に泥が入ってしまう。泥は顔じゅうにこびりつき、口の中にも鼻の中にも耳の中にも、容赦なく入り込んでくる。この泥のせいでハスラーのイグニッション・スイッチやスターターのキックは固くなってしまう。チェーンの伸びもはやい。ウエアのファスナーにも泥がつまり、上げ下げが難しくなってしまう。

▲泥まみれになってアラスカ・ハイウェーを走る

▲雨が上がると、それっとばかりに全部干す!

雨と寒さと泥と戦いながら走り、ドーソンクリークを出発してから4日目に国境に到着。カナダ側からアメリカ側に入ると、国境事務所の係官は驚きの声を上げた。「ちょと待ってろ!」といって、カメラを持って戻るなり、泥まみれになったぼくの姿を写真にとった。係官には「キミはアンラッキーだな。今年の夏は太陽を忘れたかのようだ」といってなぐさめられた。

アメリカ側(アラスカ州)に入ると、ありがたいことに舗装路になった。国境近くのガソリン・スタンドで給油し、そのあとハスラーを洗う。すさまじい泥なので、1時間近くもかかって洗車を終えた。そのあとは自分の番だ。ウエアを着たままザーッと頭からホースで水をかけた。

▲カナダからアメリカのアラスカ州に入る

アラスカ・ハイウェーの終点を目指し、さらに北へ、北へと走り、ついに北緯65度のフェアーバンクスに着いた。きれいな夕焼けだった。川のほとりにある「アラスカ・ハイウェーの終点碑」の前で、来る途中で何度となく出会ったキャンピングカーのアメリカ人夫婦と「着いた!」と抱き合って喜び合った。

▲フェアーバンクスのアラスカ・ハイウェイの終点。ここで折り返す

フェアーバンクスを折り返し地点にして、ふたたびアラスカ・ハイウェーを走り、アメリカに戻ってきた。ロサンゼルスを目指し、モンタナ州→ワイオミング州→コロラド州→ニュウーメキシコ州→アリゾナ州→ネバダ州と、内陸部を走った。その間ではイエローストン・ナショナルパークに寄って、大間欠泉を見た。

▲ロッキー山脈を後にし、カルガリーまで下る

▲カナダからアメリカに入り、イエローストーン・ナショナルパークにやってきた

▲イエローストーン・ナショナルパークの大間欠泉

明日はロサンゼルスに到着という日は、標高1,200メートルのデイラン峠を越えてデスバレー(死の谷)に下った。西半球で一番低い海面下85メートルの地点まで下っていくと、気温は急激に上昇し、熱風が渦を巻いて吹き荒れていた。

▲アリゾナ州の荒野を行く

ロサンゼルスに戻ってきたときの所持金はたったの15ドル。すぐにでも仕事をみつけて資金稼ぎをし、それから新たに「アメリカ一周」の旅に出ようと思っていた。ところが何ともありがたいことに、USスズキに助けられた。

GT380の新車を1台用意してもらい、テストという名目でクレジット・カードも用意してもらった。このカードが1枚あれば、アメリカとカナダ内にあるすべてのガソリン・スタンドで、サインひとつで給油してもらえる。

さらにUSスズキのアメリカ人社長が自ら募金箱を持って社内をまわり、社員のみなさんからカンパを集めてくれた。そのおかげですぐさま「アメリカ一周」に出発することができた。

8月11日、ロサンゼルスを出発。GT380の高速性能はすばらしい。時速80マイル(約130キロ平均)でフリーウエイ(高速道路)を突っ走る。アメリカ向けの輸出車なので、メーターはマイル計。空冷のラムエアーシステムの「キュイーン」という風切り音にしびれてしまう。

▲ロサンゼルスを出発点にしての「アメリカ一周」開始。大陸横断のUS50号を行く

乾燥したネバダの原野を越え、ユタ州に入り、グレート・ソルトレイクのまっ白な塩原を突っ走る。ここはガスタービン車が地上での最高速度を競うボナビル・レーストラックだ。GT380のアクセルを全開にすると、時速100マイルをあっというまに超える。塩がまるで水しぶきのように飛び散り、走り終えると、車輪やエンジンには塩が厚くこびりついていた。

ミネソタ州ではミシシッピー川の源流近くにあるメサビ鉄山に行った。アメリカを世界でも最強の工業国にした原動力のひとつは、このメサビの鉄。豊富な鉄鉱石は五大湖のひとつ、スペリオル湖のダルース港から鉄鉱石専用船で五大湖の周辺に送られ、このエリアは世界でも有数の大工業地帯になった。だが、そのメサビもすでに老年期。ペンペン草のはえた鉄山の「世界最大の露天掘り鉄鉱山を見ましょう!」と書かれた看板が虚しかった。

アメリカでの毎日の食事は食パンにタマネギを切ってはさみ、ニンジンをボリボリかじりながら食べるというもの。朝、昼、晩、同じものを食べるので、考えることといったら「うまいものを食いたい!」ということばかり。どうしても我慢できなくなると、1個1ドルのハンバーガーを食べた。

ナイアガラの滝を見たあとカナダに入り、トロントを通ってモントリオールへ。「ベチャに会いたい!」という気持ちを抑え、再度、アメリカに入った。

ボストンからニューヨークへ。ニューヨークでは「自由の女神像」を見た。フィラデルフィア、ボルチモアを通り、首都のワシントンへ。ここではキャピトル(連邦議事堂)を見た。

▲ニューヨークに到着!

▲ニューヨークのシンボルの「自由の女神像」を見る

ワシントンからアパラチア山脈を越えてフロリダ半島に入に入っていく。マイアミからは「フロリダの鍵」と呼ばれる島づたいに、アメリカ最南端のキーウエストまで行った。右がメキシコ湾、左が大西洋。まるで海上をバイクで走っているようなものだ。

キーウエストからマイアミに戻ると、ロサンゼルスを目指し、今度は一路、西へ。ミシシッピー川を渡り、オクラホマ州からテキサス州に入った。ハスラー250で走ったアメリカと合わせると、テキサス州は第49州目になる。「今日はテネシー、明日はルイジアナ」と、毎日毎日、地図とにらめっこをして、ついに最後の州までやってきた。

▲ミシシッピー川を渡る

テキサス州からはニューメキシコ州、アリゾナ州と走り、最後にグランドキャニオンを見てロサンゼルスに戻った。

USスズキには最後の最後までお世話になった。ロサンゼルスに着くと、新聞やバイク雑誌の取材を受けたのだが、その謝礼だといってロサンゼルスから東京までの航空券を提供してもらった。ハスラー250も日本に送り返してくれるという。

1972年9月8日、コンチネンタル航空でハワイのホノルルに飛んだ。アメリカの第50州目は残念ながらバイクではなくバスでまわったが、オアフ島の小高い丘の上に立ち、真珠湾を見下ろした。

「終わってしまった…」
合計10万キロの「世界一周」が終わった。

9月10日、ハワイを最後に中華航空でホノルルから東京に飛び、日本に帰ってきた。(了)

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